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No.636 ≪ルーツに誇りをもつ≫-2010.11.17 プリント メール
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2010/11/17 Wednesday 10:19:28 JST
No.636 ≪ルーツに誇りをもつ≫-2010.11.17

 

私ごとで恐縮だけれども、新しい発見があったので、お伝えしたい。メカタ姓の人たちが集まってメカタの歴史研究を行う「全国目加田会」が滋賀県愛知群愛荘町目加田の目加田城址にある目加田地区公民館で行われた。参加して驚いたのは、目加田姓の人たちが自分たちのルーツを研究して、会報を発行し、本を書き、論文を書き、博物館で常設展示まで行って研究発表を行っている姿である。
私も「目加田会」の存在は聞いていたけれども、どこで、いつ、どのように行われているのか全く分からなかった。この会に参加するきっかけになったのは、「京都泡盛同好会」(会長:門川京都市長)の事務局長の奥様が目加田村の出身で、私の名刺を見て、懐かしい幼馴染に出会ったみたいに連絡してこられ、会報のコピーを送っていただいたことから始まる。縁は不思議なもので、私の活動拠点である沖縄と京都の接点から、ルーツの目加田村に引き寄せられた。

目加田氏の発生は不明だが、記録に見えるのは1100年ごろからのようだ。実際にはもっと古いようだが、目加田氏の本名は源氏藤原姓で藤原道長の流れを組む。一説によるとあの藤原不比等の流れとも言われている。
足利・北条時代は京極氏、六角氏の重臣として活躍し、北条政子にも随分とお世話になったようだ。その後の戦国時代では、浅井長政と連携し、浅井氏没後は織田信長についた。織田信長についたのはわけがある。安土桃山時代の象徴となる安土城は、もともとは目加田山にあった山城を織田信長から所望され差し出した後に建築されたもので、土地は目加田氏の所有だった。これをきっかけに織田側についたのである。
本能寺の変の引き金となった安土城での徳川家康の供応を明智光秀の指揮の元に対応していた。明智光秀が織田信長に叱責されて眉間に傷を負う現場にも居合わせたのだろうか。その後、徳川家康の堺旅行の護衛に随行し、尾張への帰路途中に本能寺の変を聞いた。危険が迫る徳川家康を伊勢付近まで無事に送り届けたのち、あろうことか、明智側についてしまった。徳川家康が尾張に来るよう誘われたにもかかわらず、利害を超えた明智側との関係を取ってしまった。

激怒した豊臣秀吉は目加田村及び目加田一族を徹底的に討伐し、ほとんどの目加田姓の一族は全国に散らばり、隠れた。目加田村にとどまった一族は、やむを得ず、目加田姓から他の姓に名前を変えて生きながらえ、現在にいたっている。
その後、目加田氏の本家筋は縁あって紀州和歌山の徳川吉宗の家来となり、第8代将軍となった吉宗につき従い、一族は江戸に向かい、徳川に終生忠誠を誓うことになる。そのころの関係者では、桜田門外の変で倒れた伊井直助、西郷隆盛と談判して江戸無血開城に立ち会った勝海舟などがいる。
常に時流を読んで、情勢分析をし、戦国時代を生き残ってきた先祖の英知はすごいものだ。一時、明智側について秀吉から攻められるが、うまく立ち回り、時の政権の徳川家の本流に入ったところはさすがである。

本家は現在56代目で、東京におられる。私の先祖は本家から見れば傍系の傍系のそのまた傍系だろうが、もとはと言えば、1300年以前に誕生した目加田氏である。
正確なところは不明だが、ずいぶんとすごいルーツを持っているものだと誇らしくうれしく思った。先祖の名に恥じぬように日々精進して、企業の軍師として努めてゆきたい。

No.636  ルーツに誇りをもつ-2010.11.17.pdf

最終更新日 ( 2011/10/06 Thursday 10:24:36 JST )
 
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