2006/07/04 Tuesday 11:07:28 JST |
No.345【組織を変革する】-2005.3.2
人が集まって組織ができるが、その組織は生まれた途端に保守的になってゆき、従来のやり方を踏襲し、新しい動きができず、環境変化についてゆけなくなってしまうのです。
文豪吉川英治氏の代表作「新書太閤記」(講談社刊)の「奉公一心」のなかに豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と呼ばれていたころ、炭薪奉行を命じられ、構造改革を行うエピソードがあります。 織田信長から奉行を拝命したとき、なぜ自分が奉行に登用されたのか、信長の意図を解釈する場面があります。 『ははあ、炭薪の費えを、もっと節約せよとのお旨だな。いや、そのお旨は一昨年から出ているが、村井長門の節約ぶりではお気に召さぬのだな』 そう理解した木下藤吉郎は、最初に現状を把握するために、炭が消費されている現場を視察し、過去のやり方やデータを分析します。 戦国時代の戦争は雪のない春から秋にかけて行われていました。 冬は雪に閉ざされて身動きできないために、主に兵士の休養に当てられており、兵士は火鉢に炭をくべて暖かくして、お茶を飲んでムダ話をするのが日課だったようです。 従来は「節約」を徹底する事で目的を果たそうとしたのですが、かえって「節約」という言葉の持つマイナスイメージで逆効果だと判断した藤吉郎は、全く異なるアプローチを取ったのです。 「冬は寒いのだから、もっと炭をくべて暖かくしなさい」と声をかけて回ったのです。 本当の問題は炭を節約することではなく、冬場の活動を大目に見るという悪習で、それはトップである信長が、せめて冬の休戦中だけでもゆっくりさせてやりたいと温情にほだされているからだと考えたのです。ならば、トップの考え方を変えなければ、本質的な問題解決にならないので。 トップ自らが率先垂範して本来の冬のすごし方を示さねば、組織の体質を変革する事はできない。 そこで、木下藤吉郎はトップである織田信長に、 「トップの温情が組織を軟弱にし、火鉢の周りでお茶を飲んで雑談するのを黙認し、ひいては炭薪の消費を増やし財政を圧迫している原因である。 トップ自ら体質改善の号令を取っていただきたい。」 と意見具申し、信長はそれを受け入れ、幹部会に命じて平時の日課を決めさせて、励行させたのです。 武具の手入れ、武術訓練、禅の実習、土木工事と暇を与えることをしなかった。 その一方で、従来の管理方式(上司による許可制)を廃止し、炭は好きなだけ使っても良いとした。 その結果、炭の消費は1/3まで削減できたのです。
組織を構成している人間の心理や行動を理解して、互いの持てる強みを活かすことにより、組織を変革し劇的な効果を得る事ができるものです。 「ファシリテーション」もそのひとつです。 ファシリテーションを行う人をファシリテーターと呼び、一般的には会議進行役と思われていますが、様々な手法を駆使して、もっと重要で幅広い役割を果たします。 問題を解決するためには、どのような組織やチームを作るのかというプロセスを設計し、そのチームでどのようなプロセスで問題解決するのかマネジメントします。当然、問題解決には抵抗勢力との対立が発生します。その対立をマネジメントして、合意形成をはかり、皆が納得するやり方で行動し成果を上げるのがファシリテーションです。 木下藤吉郎はずば抜けたすばらしいファシリテーターだったのです。
ネットワーク型社会におけるリーダーはファシリテーション技術を習得しなければ成果を上げることはできません。 1989年のベルリンの壁崩壊、1992年のソ連崩壊、1995年のインターネット商用化によるネットワーク社会の出現、そして、グローバル化によるヒト・モノ・カネ・情報が活発に移動しました。 社会はものすごい速さ(ドッグイヤー)で変化し、仕事は高速かつ高度化が進み、おのずと専門細分化されてゆきました。 M&Aにより技術や市場を自社で育成するよりも買うことが一般化し、新しいスキルをもつ部下の方が上司の能力を上回るようになってしまったのです。 上司は権限を振り回すだけではマネジメントできなくなり、様々なスキルと価値観や文化をもった人々と協働して仕事をしていかねば目的を達成できなくなりました。 監督の采配が確立している野球型組織から、メンバー間のコミュニケーションによって目的を達成するサッカー型に進化したのです。 そこで、脚光を浴びるようになったのが、ロジカルシンキングとコーチング、グラフィックスを駆使して、「もれなく」「ダブリなく」、意見を吸い上げ、融合しながら合意形成を促進するファシリテーションなのです。適当な日本語がないのでそのまま使用します。
組織を変革するためのファシリテーションの基本ステップは (1)プロセス・デザイン⇒ (2)プロセス・マネジメント⇒ (3)コンフリクト・マネジメント の3つで進めます。 具体的には次のプロセスで進めます。 ① 現状認識により危機感を共有する ② 推進機関としての変革チームの組織する ③ 変革ビジョンをデザインする ④ ビジョンを忍耐強く周知徹底する ⑤ 変革行動を奨励する ⑥ テーマを工夫し3ヶ月で目に見える成果をだす ⑦ これをきっかけにさらなる変革を推進する ⑧ 新しい企業風土を定着させる
このプロセスで有名なのが「日産リバイバルプラン」のカルロス・ゴーン氏の改革です。 日本の名門巨大企業、日産自動車にフランス語を話すレバノン人のルノー上級副社長カルロス・ゴーンが来日したのは1999年4月。 そして、8月。日産グループ14万8000人の中から選ばれた9人のリーダーによって「クロスファンクショナルチームCFT」が組織されたのです。 この9人は世界中から部門横断的に現場の第一線の有能な人材を招集し、総勢150名のCFTを回して作成したのが「日産リバイバルプラン」です。 リーダーの権限は絶大で、直属の上司への報告は一切禁止され、ビジョン作りに専念。 今までは大胆なアイデアは上層部や他部門の有力者に骨抜きにされてきた日産でしたが、ゴーン氏はリーダーから上がってくる戦略に対し、何度もノーを突きつけ「アグレッシブなのか」「制約なしで考えたのか」と妥協を許さず、納得いくまで議論させました。 そして迎えた10月18日。「日産リバイバルプラン」発表の日。本体にも関連会社や取引先に大きな決断を強いた内容で、翌日の日経新聞では「2万1000人削減」「部品・素材の取引先半減」「日産 部品含め5工場閉鎖」「再生へゴーン流 系列破壊」の見出しが躍りました。 結果は周知の通りですが、たとえ障害が大きくても妥協することなく計画を着実に実行して、大成功に終わらせました。 1年後、新たな企業風土をもった「新生日産」が誕生したのです。
戦国時代の優秀なファシリテーターは木下藤吉郎でしたが、ネットワーク時代の優秀なファシリテーターはカルロス・ゴーン氏だといえます。 組織を変革する必要性を植えつけたのはゴーン氏ですが、戦略を策定し、それを推進したのは当時無名の9人のリーダーだったのです。9人のリーダーがパイロットになり、150名のクルーの心に火をつけて、火だるま集団に変えていったのです。 たとえ、抵抗があっても目的を達成する力をほとんどの企業が持っているという証明をしてくれたのです。
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