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2019/05/08 Wednesday 10:06:12 JST

No.1062 ≪「種太郎」が見ていた「北極星」≫-2019.5.8 目加田博史

 

2019年5月1日 令和元年おめでとうございます。天皇皇后両陛下の御即位をお祝い申しあげます。
202年ぶりの生前退位により「平成が戦争の無い時代であったことを嬉しく思う」と平和な社会を希求され続けてこられた明仁上皇様が誕生されました。日本人として誇らしく嬉しい限りです。

さて本題です。幕末から大正にかけて活躍した人物に「種太郎」(1953-1926)がいます。幕末の旗本の長男として生まれ、1867年の大政奉還で徳川慶喜とともに静岡に移り、静岡藩士となりました。16歳の時に、藩命で明治政府の設立した大学南校(現東京大学)に入学し、在学中にイギリス留学の命を受けましたが、建国100年で急成長していたアメリカ留学を切望しかなえられ、最難関のハーバード法律学校(現ハーバード大学)に留学しました。ハーバードを選んだのは法律と財政を学ぶためです。「種太郎」が法律を学んだのは、幕末のペリー来航後、開国した日本は欧米列強と不平等条約の締結を余儀なくされ、貿易に精通した外国人と不慣れな日本人とでは赤子の手をひねるごとく、日本人は理不尽で不条理な不利益をこうむっていたからです。これに対抗するには先進国の常識を学び『国際スタンダード』を獲得するしかないと思っていたからだろうと推測します。当時の日本人留学生はアメリカに37名いて、ハーバードには井上良一と「種太郎」だけでした。井上良一は卒業後、東京大学法学部で唯一の日本人教授となりましたが残念ながら自殺しました。

ハーバードを卒業した「種太郎」は、帰国後、文部省に招かれ教育係となり、小村寿太郎、鳩山和夫等9名の生徒を引率して2度目の渡米を行いました。その間に、後に東京音楽学校(現東京芸術大学)校長となる伊沢修二と出会い学校設立の基礎を作りました。そこで目指したのは、『国際スタンダード』の獲得でした。発音の国際スタンダードを学び、日本人にあった発音を教育する事。日本人による日本人のための国際水準の実学、それが『国際スタンダード』です。当時の日本の教育には音楽という科目はありませんでした。音楽教育の必要性を実感し、日本で実現したかったのです。

アメリカ留学中に知り合った3名の藩士(相馬永胤、田尻稲次郎、駒井重格)と意気投合し、日本で日本語で教える学校を作ることを約束しました。帰国後、司法省の代言人(いまの弁護士)を開業しながら、学校設立に奔走しました。中でも、法律を教える学校は、英語で教える東京大学、フランス語で教える司法省の法学校しかなく、日本語で法律を教える学校がありませんでした。そこで1880年に私立の法律と経済を教える専修学校(現専修大学)を創立し、多くの人材を育成しました。ここでも「種太郎」は『国際スタンダード』を目指して行動しました。同年、東京代言人組合(現東京弁護士会)を設立して初代会長となりました。翌年には裁判官にもなりました。

その後、1883年「種太郎」は松方正義大蔵卿に請われて役人になります。開国後、年々貿易が盛んになり、中でも生糸貿易は日本の輸出額の6割にも達し、その8割以上が横浜港から輸出されていました。日本は、その資金で軍艦を購入し富国強兵を実現し、多くの国営会社を設立し殖産興業を実現していたのです。
アメリカで税制・財政を学んだ「種太郎」はその実績を買われ、税制の基礎を築きあげました。この時に塩とタバコを専売制とし専売公社を設立しています。

税金を正確に平等に徴税するためには土地の測量が必要であると考え、測量技法の研究に没頭した時期もありました。この知識が、廃藩置県で日本に編入された沖縄で生かされ、地元の人材による税務業務の遂行を基本とし、測量学校を設立し測量士を育成しました。さらに、1895年の日清戦争後の下関条約で台湾が日本の植民地になった時、教育を施しながら地元の事は地元で遂行できるよう、日本と同じ品質の税務遂行を実現しました。さらに、1904年の日露戦争中に締結された日韓協約により、財政顧問として貴族院の勅選議員になっていた「種太郎」が招聘されました。日露戦争後のポーツマス条約で韓国が日本の保護国になると、韓国統監府を設置し、1907年初代総督に明治政府の総理大臣を4度も務めた伊藤博文が就任しました。伊藤博文は、保護国政策は韓国民が自立できるまでとし、併合する必要はないと考えていました。その結果、併合されなくては困ると思ったのでしょうか、ハルピン駅で暗殺されてしまいました。伊藤博文の意に反し、1910年に日韓併合された時、韓国の未来を思い、伊藤博文と同じ釜の飯を食っていた「種太郎」はどういう思いで仕事をしていたのでしょうか。

「種太郎」は、李氏朝鮮末期の韓国のあまりのひどさに驚き、家の屋根は水平であることを納得させるために日本から大工を呼び寄せて家づくりをさせたというエピソードがあります。フランス人司祭のシャルル・ダレ(朝鮮事情の著者)に「世界最強の傲慢階級」と呼ばせた両班(やんぱん)が跋扈する無法地帯のカオス状態で、貨幣の信用は無く、役人は収奪組織になっていたと言います。イギリス人探検家のイザベラ・バードの「朝鮮紀行」によると、50円の商品を買うのに葉銭(ようせん)という貨幣が30貫(約100kg)必要でした。
「種太郎」は培ってきた『国際スタンダード』という信念のもと、韓国の改革を進めます。北極星が常にありました。
最初に手を付けたのは、土地調査事業です。沖縄、台湾でのノウハウを韓国に移植しました。土地の所有関係があいまいで、両班の力による支配が続いてきた韓国では、所有者不明の土地は総督府が没収し、小作人に安価で再分配するという政策に両班の抵抗は並大抵のものではありませんでした。しかし、この政策で多くの地主が誕生し、今までは両班に強奪されても文句も言えなかった農民が収穫の喜びを味わうことができたのです。
次に「種太郎」が行ったことは、政府と宮内府の権限と財政区分の明確化並びに法制度の整備と国庫金取扱機関の新設です。偽造貨幣が横行しており、貨幣の信用は世界でも最悪だった韓国に日本銀行をバックにした銀行を設立し、貨幣の発行権限を一本化し、貨幣制度を改善しました。地方に多数の金融組合を設立し多くの貧民に安価で貸出し、自立・起業を促進しました。1753年の調査以来ほとんど増えなかった人口が、1910年の韓国併合時の1300万人が、1940年には2300万人にまで増加したのは、「種太郎」の信念が実を結んだのではないかと思います。「種太郎」の信念だった『国際スタンダード』はいわば彼の北極星そのものでした。 

No.1062 「種太郎」が見ていた「北極星」.pdf 

最終更新日 ( 2019/07/05 Friday 17:24:25 JST )
 
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