No.1058 ≪新しい御世は令和から≫-2019.4.3 |
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2019/04/03 Wednesday 16:24:31 JST | |
No.1058 ≪新しい御世は令和から≫-2019.4.3 目加田博史
日本国内は勿論のこと、世界中が注目した新しい御世の元号が「令和」と定まりました。「令」の響きから、かっこいいとか、すっきりしているという意見と、命令や号令、指令、辞令という具合に問答無用で強制される嫌な響きを感じる方もおられるようです。 「令」と言えば、初めて元号を使用することになった646年の大化の改新で、様々な改革が行われています。一部豪族の土地独占を禁止し、公の物とした公地公民制、戸籍と公地を公民に貸し与える班田収受法、租庸調税制もこの時に制定されたと言います。これらの改革の基本ルールが「令」です。 6世紀中ごろ、激しく分裂していた中国大陸で、北周の有力将軍だった楊堅が宣帝の禅譲を受ける形で、581年に隋を建国し、300年ぶりに中国を統一しました。ちなみに楊堅は、「四知」の説話で有名な楊震の子孫に当たるようです。楊堅は即位して高祖と名乗り、次々に内政改革を行い、法を整備して開皇律令を制定します。刑法を意味する律と行政法を意味する令を体系化したのです。 統一政権である隋の先進文明を吸収しようと、600年に聖徳太子は第1回目の遣隋使を派遣しました。ところが、隋の高祖文帝は法のない野蛮な国の使者には会わないとけんもほろろに追い返されてしまいます。そこで、聖徳太子は学び、すぐさま憲法を制定するべく行動し、604年に、「和をもっと尊し」で始まる有名な17か条憲法を制定したのです。これをもって607年に小野妹子を団長に第二回遣隋使を派遣し、第二代皇帝煬帝に謁見しました。小野妹子は煬帝の返書の内容があまりにひどいためそのまま持ち帰れないと判断して、百済に盗まれたとうその報告をし、帯同していた隋の使者に報告をさせ、事なきを得たエピソードは有名です。 そのころ、モンゴルから朝鮮半島を席巻していた高句麗と隋は戦争状態にあり、日本の友好国だった百済と新羅は隋に高句麗討伐の陳情をしています。しかし、この戦いが原因で第二代皇帝煬帝の死去に伴い隋は国力が衰微してゆきます。煬帝の孫にあたる第3代皇帝の禅譲をうける形で煬帝の従妹に当たる李淵が618年に唐を建国しました。 半島では645年に高句麗・百済同盟に唐へのルートを絶たれた新羅が唐と組んで戦いが起きます。唐と新羅の挟撃によって百済はあっけなく660年に滅亡します。百済の遺臣が日本に救援を求めてきて、時の実力者中大兄皇子はこの要請を受諾し救援を決断します。そして、663年の白村江の戦いで唐と戦いますが、悉く敗戦し、大敗北を喫し、瀕死の体で帰国します。その後、高句麗も668年に滅び、半島は新羅が支配することになります。 帰国後、中大兄皇子は、唐の来襲を恐れて都を近江に移し、九州には防人を置きます。そして、内政を充実させてゆき、まとめられた法が668年の近江令です。その後、飛鳥浄御令になり、最終的には701年の日本の実情に合わせた法体系「大宝律令」として完成します。 最初は隋の高祖文帝の制定した開皇律令の見よう見まねで始めた法体系でしたが、17条憲法に理念が語られ、その後の改善が進められ、半島情勢の激変に対応しながら、外交政策よりも内政重視の政治となり、日本の国情に合わせた法体系が形作られます。中でも細かなルールや手順といった行政法が「令」と呼ばれるものです。 新しい御世にふさわしい会社づくりが求められています。 |
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最終更新日 ( 2019/04/11 Thursday 10:16:52 JST ) |