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No.1054 ≪あの日を忘れない≫-2019.3.6 プリント メール
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2019/03/06 Wednesday 14:13:32 JST

No.1054 ≪あの日を忘れない≫-2019.3.6 目加田博史

 

もうすぐあの日がやってきます。2011年3月11日(金曜日)14時46分。マグニチュード9.3という世界最大規模の地震が発生しました。
警察庁の調べによると、2018年9月現在で、死者15,896名、不明者2,536名、負傷者6,157名に上り、戦後最大の被害となり、岩手県、宮城県、福島県の東北3県は壊滅的なダメージを受け、未だに原状復旧できていない状態が続いています。

マグニチュード9.3の地震は、人類史上初めて、原子力発電所の全電源喪失という未曽有の事故を引き起こし、原子力発電所の原子炉のメルトダウンがカウントダウンされてしまったのです。その時、もしこの人とその仲間がいなければ、東日本は数百年間、人が住めない土地になっていた可能性がありました。その人と仲間とは、後に「FUKUSHIMA50」と呼ばれる吉田昌郎所長とその仲間達です。この人たちが現場の第一線で日本を守り抜いたのです。

冬の東北の夕方は薄暗く、津波で全電源喪失した原子力発電所内は真っ暗闇となりました。
原発の安全対策の三原則は「止める」「冷やす」「閉じ込める」ことですが、立っていられないほど激しい地震の揺れで原発は自動停止し、三原則の「止める」は無事に対処できて、次にやらねばならないのは「冷やす」ことです。全電源喪失ということは所内のコミュニケーションが取れない中で情報を集めて判断しなければならないのです。吉田所長の頭の中は次にやるべきことは何か導き出すためにフル稼働していました。

電気が使えないとすると、手動で冷やすしかありません。手動で「冷やす」には、消防車を使って放水するしかないと判断し、被害を受けていない消防車を確認すると1台しかないことがわかり、すぐに自衛隊に災害派遣要請をして、消防車を2台手配しました。現場社員は真っ暗闇の原子炉内で「冷やす」ための通路を確保するための作業を行っていました。この判断が、未曽有の災害を、ギリギリのところで、最悪の事態に至らせずに収束させることができたのです。
2019年3月現在でも、懸命の復旧作業が続いていますが、未だに内部の状況すらわかっていない現状です。廃炉が完了するのは、30年以上先の平成62年(2050年)ごろと言われています。

3月12日、1号機水素爆発。半径20km圏内の住民に避難指示が出ました。3月13日、3号機冷却不能。3月14日、3号機水素爆発。2号機の格納容器圧力が最高圧力を超過。3月15日、4号機原子炉建屋が爆発。半径30km圏内の住民に避難指示が出ました。3月16日、4号機で火災発生、3号機で白煙噴出、と立て続けに、事態が悪化してゆきます。外部電源が復帰したのは3月22日。

その時の状況を想像できますか? あなたが、約2400人の部下を持つ原発所長だとすると。原発をコントロールする電源を消失したということは、原子炉が暴走し、時間とともに、放射能濃度は高まり、誰も寄せ付けなくなる前に、誰かが、その場に踏みとどまり、打つべき手を打たねばならないということです。
原発敷地内はいうに及ばず、建屋内も地震の影響でガレキだらけになっており、しかも、真っ暗です。原子炉をモニターするコントロールパネルが機能していないので、データや情報は手探りで収集するしかありません。
いくら現場を熟知している技術者と言えども、困難を極める作業です。通信回線は1本だけ。連絡は人間が出向いて伝えるしかないのです。20kg近くある防護服を身に着けて、放射能の恐怖と戦いながら、身振り手振りでコミュニケーションを取りながら、限られた時間内に作業することは想像を絶します。
限界まで放射能を浴びた技術者はもう現場には行けません。事態は刻々と悪化の一途をたどります。

そこに、テレビ会議で本店、保安院、原子力安全委員会と様々な利害関係者と調整しなければならない上に、政府・官邸までかかわってきます。挙句の果てには、専門家でもない「時の総理」が、自衛隊のヘリコプターで現地に来るというのです。それでなくとも、刻一刻と東北消滅、日本消滅の危機が迫りくる中、対応しなくてはいけない所長の心中はいかばかりだったでしょうか。高濃度の放射能に汚染されたグランドに着陸したヘリコプターから、放射能を遮断している免振重要棟に、総理一行が移動するだけで、そこが汚染されてしまいかねません。それでなくても、作業員のマスクや防護服が不足している中、やりくりしているのですから、たまりません。

「冷やす」ために、発電所の消防車と自衛隊の2台の消防車をつないで原子炉に放水しましたが、水はすぐになくなったので、あとは海水を使うしかありません。海水に切り替えて注入しました。その時、官邸から海水注入を中止するよう指示が入ります。爆発するかもしれないので、『待て』というのです。冷やさないとメルトダウンを起こします。吉田所長は、所員にこう言います。「本店から、海水注入中止の指示が来るかもしれない。その時、俺は本店に聞こえるように『注入中止!』と命令を出す。しかし、それを聞き入れる必要はない。お前たちはそのまま海水注入を続けろ。いいな」。東京電力という組織の一員である吉田所長は、海水使用の是非を議論する官邸と本店に翻弄されることなく、表面上は指示を聞きつつも、実際には、今、やるべきことをやり続けたのです。もし、官邸や本店の指示に従っていたのでは、今の日本は三分割されていた可能性が高いのです。

吉田所長は、「格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射能レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然継続できなくなります。つまり、人間がもうアプローチできなくなる。福島第二原発にも近づけなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計十基の原子炉がやられますから、単純に考えても『チェルノブイリ×10』という数字が出ます。私は、その事態を考えながら、あの中で対応していました。だからこそ、現場の部下たちのすごさを思うんですよ。それを防ぐために、最後まで部下たちが突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつけてくれた自衛隊をはじめ、たくさんの人の勇気をたたえたいんです。本当に福島の人に大変な被害をもたらしてしまったあの事故で、それでもさらに最悪の事態を回避するために奮闘してくれた人たちに、私は単なる感謝という言葉では表せないものを感じています」(門田隆将著「死の淵を見た男」356頁)という。

3月14日、3号機が水素爆発を起こし、2号機の格納容器の圧力が最高圧力を超えた時点で、協力会社の従業員を退避させ、その後の2号機での爆発を機に「最少人数を残して、退避」させました。そして、残るべくして残った69名の幹部は後に「FUKUSHIMA50」と呼ばれ、誰もが生きて帰れないと覚悟を決めていました。彼らがいうには、「吉田さんとなら一緒に死ねる」。それほど固い絆で結ばれていました。
原発を守り抜く、それはとりもなおさず、日本を守ることに他ならないのですが、そのために、一緒に死んでくれる人を選ぶ吉田昌郎氏は、リーダーの本分、即ち、尽くすべきつとめ・義務をいかんなく発揮したことは間違いありません。

吉田昌郎氏は、原発事故の8か月後、食道がんが見つかり、手術しましたが、脳内出血を起こし、2度の開頭手術を行い、2013年7月9日に58歳の若さでこの世を去りました。ご冥福をお祈りいたします。

現場の責任者であった吉田昌郎所長とその仲間の活躍は、ジャーナリストで唯一、吉田昌郎所長とのインタビューに成功した門田隆将氏の著作「死の淵を見た男~吉田昌郎と福島第一原発の500日~」に詳しいので、ぜひ、ご一読をお勧めします。

最終更新日 ( 2019/03/14 Thursday 14:50:48 JST )
 
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