No.0998 ≪阪神淡路大震災に思う≫-2018.1.17 |
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2018/01/17 Wednesday 11:52:06 JST | |
No.998 ≪阪神淡路大震災に思う≫-2018.1.17 目加田博史
今から23年前、1995年1月17日(火)午前5時46分 阪神・淡路大地震が発生。マグニチュード7.3、死者6,432名、負傷者43,792名、倒壊家屋249,180棟(内、全焼家屋6,965棟)、ライフラインが全滅する想像を絶する被害が神戸を襲いました。その被害額は約10兆円にも上り、多くの企業や個人がつらい思いをされました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害にあわれた方々には心よりお見舞い申し上げます。 「もし、あの時神戸にいたら」。 1月15日~16日に神戸の友人と会い、そのまま神戸に泊まり、翌日は鹿児島出張の予定でした。ところが、友人の都合が悪くなり、会社の近くにある大阪のホテルに宿泊することにしました。そして、地震発生。異常な揺れに驚いて飛び起きると、電気がつきません。カーテンをあけて白み始めた朝もやの中で室内を見ると、枕元にあったテレビが足元に飛び、冷蔵庫が倒れているのが分かりました。 鹿児島に移動するため、やっと捕まえたタクシーに乗るなり、何があったのかと運転手さんに聞くと、神戸で地震があり、阪神高速(道路)が横倒しになっているとのこと。伊丹空港に到着して、ロビーのテレビをみて唖然としました。なんと、神戸の町が燃えているではありませんか。会社や自宅、実家に連絡を取ろうと公衆電話を探しましたが、どこも長蛇の列です。やっと、電話をかけても話中でつながりません。当時は、ほとんどの地域で電話回線が寸断され、不通常態になっていたのです。この時から、PHSや携帯電話が爆発的に普及するようになりました。また、今ではLINEで瞬時に安否確認できますが、これは東日本大震災の教訓によるものです。 8時台の死者3名は、鹿児島に着いた9時台には300名、鹿児島を出発する17時台には1500名、大阪に着いた18時台には3000名と、時間がたつにつれて被害の大きさが明らかになりました。 翌日(18日)、会社に出社すると、社員とお客様の安否確認状況がボードに掲示されており、住宅が倒壊したり、壊れた方はいましたが、亡くなったり、怪我をした方がいなかったのが不幸中の幸いでした。その日は、安否確認で一日が終わり、翌朝から、皆で手分けして、お客様を訪問することにしました。 鉄道はJR、阪神、阪急とも、淀川以西では、いたるところで寸断されており、高速道路は通行止めで、一般道もひび割れて、車線減少、しかも物資輸送のトラックで大渋滞です。確実なのは「バイク」「自転車」「自分の足」です。ところが、バイクや自転車はどこも売り切れで、臨時電車と臨時バスを乗り継いで歩いてゆくしかありませんでした。 神戸市内は言うに及ばず、大阪市内のデパート、スーパー、コンビニのあらゆる食品はすべて売り切れです。 お客様の会社に着くと、地震で、風景が様変わりしていました。建物が倒壊し、見えるはずのない海が見えるのです。急ごしらえのドラム缶ストーブの回りに輪になって暖を取っておられました。1月の神戸は六甲おろしが吹き、停電で暖房が利かないのです。 あれから23年。神戸は多くの悲しみを乗り越え、見事に復興を成し遂げています。その震災復興ノウハウは、いたるところで教訓として生かされ、東日本大震災の時も神戸チームが大活躍されたと聞きます。 |
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最終更新日 ( 2018/03/19 Monday 09:30:48 JST ) |