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2017/05/31 Wednesday 13:59:04 JST

No.966 ≪台湾に命を懸けた二人の日本人≫-2017.5.31 目加田博史

 

先日、お客様の研修旅行で7度目の台湾を訪れました。行くたびに、李登輝元総統にお会いできればと願っておりますが、今回もお会いできませんでした。1923115日生まれの李登輝元総統は今年で94歳におなりになります。同じ時代を生き抜いてこられた尊敬する、裏千家千玄室大宗匠(鵬雲斎)も1923423日生まれの94歳です。前職で仕えてきた経営コンサルタントの2人の恩師も同じ時代を生き抜いてこられました。第5期陸軍経理学校卒業の田原敏男氏は1922911日生まれで94歳です。もう一人、田辺昇一氏は1922315日生まれで、93歳でなじみの理髪店で髪を整えて、そのまま天寿を全うされ大往生されました。
どなたも、武士の本懐というか、一本筋の通った尊敬すべき方々です。まだお会いできていない李登輝元総統の謦咳に、ぜひとも、触れたいといつも思っております。

その台湾のゆかりの話題を提供したいと思います。今でも教育者の鏡として「六氏先生」と呼ばれ慕われている、芝山厳学堂で1986年元旦に殉職された日本人教師や、1930年に完成した烏山頭ダム開発に尽力した八田與一氏は有名で、19451017日の国民党政権の台湾上陸以降、日本統治下に建立された神社や石碑や顕彰碑は、悉く破壊されましたが、日本人を尊敬する台湾人によって、人知れずかくまわれ、供養され、現在に至るまで、花が枯れたことがないと聞きます。今年に入って、八田與一氏の銅像の首が壊されたり、六氏先生の石碑に落書きされたりしているのは悲しい限りです。
そして、敗戦前後に、日本人でありながら、台湾のために命を懸けた2人の日本人がおられます。一人は、根本博氏(189166日生まれ)、もう一人は、湯徳章氏、日本名は坂井徳章氏(190716日生まれ)です。この二人は、同じ時期に台湾で、根本博氏は、国民党の軍顧問として指揮を執り、坂井徳章氏は、罪人として処刑されました。

根本博氏は、1945815日の玉音放送を、駐蒙軍司令官・陸軍中将として聞きました。敗戦による戦闘停止は、武装解除を意味します。終戦間際に参戦したソ連軍の猛攻を受け、共産党軍が迫っている中、ソ連軍や共産軍の蛮行のひどさを熟知している根本中将は、いま武装解除することは、兵隊ばかりか在留邦人、特に婦女子の悲惨な結果しか生まないと思い、悩んだ末、天皇陛下の停戦命令を無視して、部下に戦闘継続の命令をだしました。なぜなら、軍隊の本来の使命は「国民の生命と財産を守ること」だからです。内蒙古に在留する4万人超の邦人を無地帰国させるまで、ソ連軍と戦う決断をしたのです。そして、帰国の手筈は、蒋介石率いる国民党の中でも信頼する俌作義(ふさくぎ)軍と武装解除交渉し、彼らの力を借りて実現したのです。50万人以上の在留邦人がいた満州を守る関東軍は即座に武装解除し、55千人以上がシベリア抑留され、その多くが過酷な環境の中で命を落としたことはご存じのとおりです。軍命を守るも軍人、国民の生命を守るも軍人。根本中将は、軍命に違反しても、軍人の使命に則り、在留邦人の生命を守ったのでした。

戦後、日本に帰国した根本氏は、内蒙古で助けてもらった国民党が共産党との戦闘に敗れ、台湾に逃げたと聞き、あの時の恩義を何とか返したくて、台湾を救いたくて、いてもたってもおれません。GHQ占領下で台湾渡航の許可が下りるはずもなく、ポンポン船に乗り、密航して、やっとたどり着いたものの、ひどい身なりだったので、国民党につかまり、「内蒙古で世話になったので、台湾を救いたい。責任者に合わしてほしい」と懇願しても信じてもらえず、獄につながれてしまいました。変な日本人が台湾を救いに来たという噂が流れ、在留邦人の帰国の労を取ってくれた恩人の耳に入り、感泣の再会を果たし、国民党の軍顧問として迎えられ、共産軍と戦い、今の台湾を守ったのでした。

もう一人の日本人、坂井徳章氏は、警察官として台湾に派遣された熊本出身の坂井徳蔵氏と台湾人湯玉さんの間に生まれました。徳章氏が8歳の時、父の徳蔵氏が、1915年に起きた抗日武装蜂起事件、西来庵事件で犠牲となり、法律上、台湾国籍の湯徳章と名乗ることになりました。赤貧で学校どころではなかったのですが、その才能を惜しんだ校長の計らいで、師範学校に入学を許され、母親が作ってくれた服を着て通学していたところ、制服を着用するよう命令され、制服を買う金もないし、第一、母が作ってくれた大事な服を着てはいけないといわれ、納得できず、退学して、父と同じ警察官になりました。そこでも、台湾人の人権が踏みにじられる実態を見て、「台湾人の人権を守る」ために法律家をめざし、27歳で、妻子と来日・上京し、中央大学に入学しました。小学校卒の学歴しかない徳章氏は、日夜苦学の末、大検と司法試験の両方を同時に合格するという離れ業をこなし、台南で弁護士事務所を開設しました。
そして、敗戦後、日本統治から国民党統治となり、台湾は非常な混乱期を迎えました。そして、運命の事件が起きたのです。1947228日、闇タバコを売っていた女性を取り締まるとき、外省人の警察官が振るった暴力がきっかけで、本省人による暴動が起こりました。日本語がわからない、君が代を歌えない外省人を区別しながら、暴動は、台湾全土に波及し、あちらこちらで武装蜂起が起きました。後にいう228事件です。徳章氏が弁護士事務所を開いている台南でも例外ではなく、学生や市民が武装蜂起しました。
しかし、このままでは事態は悪化する一方だと判断した徳章氏は、武装蜂起をやめるよう、学生を粘り強く説得し、彼らの持っていた武器を回収し、警察に引き渡しました。暴動鎮圧に躍起の軍や警察は、徳章氏を逮捕し、誰が武器を渡したのか自白させようとしましたが、名前を口にすることはありませんでした。拷問は苛烈を極め、ついに肋骨を折られ、手指を折られても、自白しませんでした。罪を一身に背負い、市中を引き回され、処刑場に立たされたとき、徳章氏が、「私に目隠しも、倒れないように木に縛り付ける必要もない! なぜなら、私には大和魂の血が流れているからだ! もし、誰かに罪があるとしたら、それは私一人で十分だ!」と台湾語で叫び、さらに日本語で「台湾 万歳」と叫んで銃殺されました。
戒厳令下、台南を救った英雄 湯徳章の勇気は語り継がれ、李登輝元総統の努力により、戒厳令が解除された1998年、湯徳章氏が処刑された広場は「湯徳章記念公園」と命名され、銅像が建立されました。さらに、2014年、台南市長は、その命日を「正義と勇気の日」として制定したのです。根本博氏のことは、門田隆将著「この命 義に捧ぐ」、湯徳章氏については門田隆将著「汝 ふたつの故国に殉ず」に詳しいので、ぜひ、読んでいただきたいと思います。
このような日本人がおられたからこそ、台湾は今でも世界有数の親日国なのです。

 
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